-社会経済における正義とイノベーション-

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-社会経済における正義とイノベーション-

土肥 義治 DOI Yoshiharu
(公財)高輝度光科学研究センター 理事長 President of JASRI

土肥義治 JASRI理事長

 2010年にNHK教育テレビで放映された「ハーバード白熱教室」は、サンデル教授のハーバード大学における政治哲学の対話型講義の収録であり、議論の内容が大きな反響を呼んだ。人間はどう生きるべきか、社会はどうあるべきかなど哲学的な原理を深く考えさせることが白熱教室の目的であり、ご覧になった方も多いと思う。
 政治哲学を復興したのがハーバード大学のロールズであり、1971年に著書の正義論の中で不平等の是正を基本とする公正な社会像を提示した。ロールズは、社会の全構成員が無知のベールをかけた原初状態で合意できる社会契約原理を明らかにして、福祉政策の正当性を示した。ロールズの正義は二つの原理からなり、第一原理は基本的自由の平等原則である。第二原理は、公正な機会均等下での経済的な不平等は許容されるが、最も不遇な立場にある人の便益を最大化すべきという格差原則である。
 ロールズ正義論以前は、十八世紀にベンサムによって提唱された「最大多数の最大幸福」という結果重視の功利主義が長く政治哲学で中心的な位置を占め、経済学などに多大な影響を与えてきた。
 イギリスのアダム・スミスは、不朽の名著である道徳感情論(1759)と国富論(1776)を刊行して、自由と平等を基本とする人間社会において秩序と繁栄は同時達成できることを明快に示した。倫理学の道徳感情論において、社会の中で生きる人間は、他人の感情や行為に関心を持ち、他人の感情を自分の心の中に写し取り、その感情を共有しようとする共感能力が人間の本性にあることを明らかにした。各人はこの共感能力によって心の中に公平な観察者を形成し、観察者の是認が得られるよう自律的に正義感を養い、道徳律と法律によって社会の秩序が実現できるとした。
 経済学の国富論において、市場経済の発達には、社会的分業を基本として労働生産性を高め、資本の蓄積を増大させ、公正な交換市場を形成することが重要であるとした。市場では価格という非人格的な指標によって財の交換と配分が予定調和的に行われ、一方、人間の利己心によって市場は拡大し資本が増大し、結果として社会が繁栄することを明示した。このように、スミスは自由主義社会の秩序と繁栄が人間の本性によって実現できることを示したのである。
 しかしながら、市場経済は供給と需要の調和の乱れによって、景気が変動し不況時に大量の失業者を生み出した。マルクスが逝去した1883年に、二十世紀を代表する経済学者のケインズとシュンペーターが出生した。ケインズは、1936年に発表した一般理論の中で不況時に需要が不足するために失業が出ることを明らかにして、有効需要の拡大のために政府公共投資を増大して雇用問題を解決すべきと提案した。ケインズ政策は、短期的な不況対策として有効であるが、長期的な経済発展政策としては力不足である。
 シュンペーターは、1912年に経済発展の理論を刊行して、経済発展の本質はイノベーションによる市場の動態的な進化であり、特に技術革新による新製品の開発と新市場の創設が重要であることを指摘した。1939年に景気循環論を発表して、三つの景気の波の底が同時に進行した場合に大恐慌が発生することを示した。景気変動による不況は非効率な生産供給を排除するプロセスであり、古きものを破壊して新しいものを創造する創造的破壊によって市場経済が進化するという。
 今世紀の先進国経済は技術革新の時代に入っており、ケインズ政策だけでは国際競争の中で斜陽の道を辿らざるを得ない。新しい科学技術を生み出し、新しい製品を作り出し、新しい市場を開拓するイノベーション経済と公正な福祉社会との融合が二十一世紀の国家像である。SPring-8とSACLAは、進化するイノベーション経済への多面的な貢献が求められている。

<過去の理事長室から>  
−科学技術の実践指針 “Think globally, act locally”− Volume 23(2018), No.3 Page 201
-創造的科学研究における直観と暗黙知の役割- Volume 23(2018), No.2 Page 92
-学際研究にて知る日本人の起源と混成構造- Volume 23(2018), No.1 Page 1
-心の哲学と科学技術の連携- Volume 22(2017), No.4 Page 296
-理化学研究所の創立百周年にあたり- Volume 22(2017), No.3 Page 226
-脱炭素社会のための技術開発とエネルギー選択- Volume 22(2017), No.2 Page 90
-財団JASRIの事業再編成と社会的責任について- Volume 22(2017), No.1 Page 1
-研究論文のオープンアクセス化にむけて- Volume 21(2016), No.4 Page 266
-科研費改革とその時代認識- Volume 21(2016), No.3 Page 180
−学問の自由は、これを保障する− Volume 21(2016), No.2 Page 77
−財団JASRIの四半世紀、そしてこれから− Volume 21(2016), No.1 Page 1
−オープンサイエンスの国際的な広がり− Volume 20(2015), No.4 Page 308
−放射光の科学技術と施設の将来を考える− Volume 20(2015), No.3 Page 236
−科学の客観性と科学者の価値観− Volume 20(2015), No.2 Page 125
−国内の放射光施設を訪ねて− Volume 20(2015), No.1 Page 1
−利用研究成果の最大化をめざして− Volume 19(2014), No.4 Page 308
−世界結晶年にあたり歴史に学ぶこと− Volume 19(2014), No.3 Page 219
−SPring-8の中間評価を受けて− Volume 19(2014), No.2 Page 90
−SPring-8利用研究成果の論文分析− Volume 19(2014), No.1 Page 1
−産学連携の研究基盤としてのSPring-8− Volume 18(2013), No.4 Page 281
−理事長就任の挨拶− Volume 18(2013), No.3 Page 202